「そもそも、その前提が間違っておる。」
と仮定することで、色々と解決し、楽になれるよね、というお話です。
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俺が俺なら、それでいい
2023年の夏。
恵比寿のおしゃれな撮影スタジオで撮影をしていただきました。
俺1人じゃとてもできない、ありがたい体験でした。
仕上がった写真を見て、俺は少し落ち込みました。
「なんか、俺ってパッとしないなあ。」
「ありゃー。やっぱ老けたなあ。」
「んー。かっこよくない男やなあ。」
と。
でも。
ちょっと待て。
- そもそも、”パッ”としたコトなんかないやろ??
- そもそも、アンチエイジングのためのケアなんかやってないやろ??
- そもそも、カッコ良かった時期なんかあんの??
と、腕を組んで考えました。
あれ。
俺は”そもそも”を勘違いしていた。
そもそもの”前提”を間違えてたのだな。
ということに気がついたのです。
もっと楽しく、もっと自由に、もっと自分らしく生きていきたいのなら、
『現状をありのままに受け入れる必要があるな』
と、思うのです。
- そもそも、”パッ”としないといけないのか??そもそも”パッ”するって、何??
- そもそも”老けること”の何が悪い?誰もが老ける。老けながらもセクシーな人はいる。
- たとえカッコ悪くても、俺が俺なのかどうか、を大切に生きていきたい。
という気持ちで改めて自分の写真を見たとき。
撮影された作品は素敵な『俺』でした。
何か無理しているわけでも、指示されているわけでもない、不自然に加工されているわけでもないい、きっと”いつもの『俺』”がそこにいました。
それの何が悪い?
それがサイコーなんだぜ。
ありのままの、そのまんまのソレがいいんだぜ。
と。
『イケてる俺』の前提=”パッ”としてて、”老け”てなくて、とってもかっこいい
・・・はあ??
なんだか今日は茨木のり子さんの詩がしみるわ。
気概と覚悟もないくせに
ミュージシャンとして「売れる」「売れ続ける」ために必要な条件は1つではないでしょう。
実力はもちろんですが、運にも左右されるに違いありません。
売れるべくして売れたミュージシャンもいれば、「なんで売れてへんの??」というミュージシャンも世間にはいるでしょう。
俺の過去の反省点としては、『行動力のなさ』や『チャンスをモノにしてこなかった』などが挙げられるかもしれません。
しかし。
俺に限っては、そもそも前提が違うのです。
- 『圧倒的に良い楽曲がない』状態で、
- 『圧倒的に良い楽曲』を作り続けようとせず、
- 既存のそこそこの楽曲で何を高望みしてたのか?
ということです。
作詞家の秋元康さんが言いました。
「3000曲くらい本気で書けば、1曲くらい当たるよ」
と。
彼が書いた歌詞の数はきっと桁違いでしょう。
そんな、10000や20000じゃないはずです。
もっともっと数えきれないくらい、それはそれは宇宙規模の単位ではないかと推察いたします。
自分の音楽活動を振り返り、
「そもそもの前提が間違っている」
と解釈すれば、多くに納得です。
俺がミュージシャンとして全く売れなかった理由。
それは、
『圧倒的に良い楽曲を作り続ける気概と覚悟がなかった』
と言えるでしょう。
もはや目的が違う。
で。また前提の話ですが。
俺がミュージシャンとして売れ続けるために今後、気概や覚悟を持つ!!という気合十分なことはしないのでは・・・と思います。
『音楽制作を楽しむために没頭する』
ということはきっとあるでしょうが、その時は
俺が思うかっこいい音楽を作り、音楽ファンに喜んでもらう
という目的で制作に没頭するでしょう。
過去の俺は、「やりたい音楽を作る」と、「世間に求められている音楽を作る」は対立していました。
その前提を疑い、
「やりたい音楽・かっこいい音楽作って、かつ、みなさんに喜んでいただく。」
と改善したら、清々しくワクワクします。
「その前提であれば、俺はミュージシャンとして売れるんでしょーか??」
と考えましたが、そこもまた前提が違うのです。
売れる・売れない、なんて考えなくていいんです。
もう、いいのだよ。生産性重視の思考は。
決定しているそのライブ1本に集中!!
現状、今の俺の音楽活動は新宿SACT!でのブッキングライブに出演するだけです。
誰からも頼まれていないのだから、無理して楽曲を作る必要はありません。
そう。頼まれてもいないのだから!!
ただし。
作りたいのなら作ればいい。
そりゃもちろん。もちろんそうです。
締切はもちろん、何のシバリもありません。(楽しいでー。)
作る・作らないは別として、ブッキングライブへの出演は確実に決定しています。
当然、ライブ会場に集まってくれたみんなには楽しんでもらいたい!!
より多くの音楽ファンに集まってもらえたら嬉しい!!
です。
じゃ、そのために何すんの??
俺はお客さんから何かをもらう側なのか?それとも俺は与える側なのか?
もちろん、与える側です。プレゼントする側です。
今までのような、
「もっとください!!ボクにください!!ボクを応援してください。ほめてください。物販たくさん買ってください。次回のライブも来てください!ああもっと!!ああもっと!!」
な姿勢は、いよいよ改めましょう。
みんなを楽しませるのは、俺だぜ。
『「ライブ来てください。応援してください!待ってます。」は、前提として間違いです!』
とすれば、スーっと納得です。
長年、俺はそこを間違えたまま放置していたんだなー、と思うのです。
「ライブ行きたい」「応援したい」「待っててくれ!!」と思われるような男になれっちゅーねん。
モノは捉えよう
例えば、の話で。
家族をディズニーランドに連れて行かなければならない、という悲劇的な朝。
「なんで俺がそんなとこ行かなあかんねん。」
と思いがちな俺。
- 朝はムダに早い
- 長時間ムダに並ぶ
- メシがムダに高い(かつ、美味しくない)
- なにかとムダなお土産を買うことになる・・・
などなど、イライラしようと思えば無限にイライラできる。
しかし。
そもそもの前提が違う、として。
家族と出かけるのは、俺が喜ぶためなのか??
と、問いかけてみる。
家族は、俺を喜ばせるために存在しているのか??
違う。
『「家族が喜ぶのなら、それでいいっか。」と、思うことにする』
のが正解です。
「ディズニーの何がおもろいねん!!!」
という気持ちは一生変わりませんが、パレードを冷たいアスファルトの上に座りながら見上げる時は、
「かわいいおねーさんと目を合わせるぞ!!」
ということを楽しもう。
ってことが、俺にはできます。(そして、目があったらはしゃぐ。)
『家族をディズニーランドに連れて行く』
というフレーズも前提的に違いますね。(前提的、って新しいな。)
『家族と一緒に、ディズニーランドへ行く』
が正解ですね。
例えば、名物大家の件。
もう1つ例を。
現在の吉田家は賃貸住宅で暮らしています。
同じ建物の最上階で暮らす大家は、とにかく吉田家が大嫌いなことで有名です。
朝、玄関先で挨拶しても、あからさまに無視されるし、なんなら睨みつけられます。
そういった態度にはムカついてしまいます。
「なんで無視やねん。こっちが挨拶してんのに!!」
と。
しかし。
「挨拶を返してもらうために、挨拶をしているのか??」
という前提で考えると、
「いや。そうじゃない。まあ人としての礼儀・礼節としての挨拶を行なっておるだけで。どちらかというと、挨拶は自分のために行なっていると言えるわけで。」
と、することができる。
「まあ、あの大家はちょっと脳みそがイってもーてるからな。そもそもアレをヒトすることが正しいのかどうかも疑わしいしな。」
と解釈し、
「人間ではなく、”動くヒトのようなモノ”」
としてとらえたら、無視されても
「そりゃ当たり前か。だってモノだし。むしろ、お大事にとお声がけをするべきかもしれない。」
と笑ってすませられます。(まあ、言うてもまもなく引っ越ししますのでー。)
いつも自分は正し、、、くない!
「最近、嫁が冷たい。なんかムカつく。」
という旦那がいますが、きっと旦那も嫁に冷たい。
旦那が冷たいから、嫁も冷たいのだ。
その前提を当てはめるなら、
「旦那が温かくなれば、嫁も温かくなろう。ほれ、温めてやれ。」
ってことになりますね。
配偶者を愚痴るくらいなら、配偶者を愚痴りたくないのなら、前提を疑うことは『試す価値なし!』ってこともない。
「旦那が話を聞いてくれない。」
という女性がいます。
いえいえ。
あなたこそ、旦那の話を聞いてないのでは??
理解しようと歩み寄っていないのでは??
いつも自分が正しい!という前提では、和平は遠ざかるばかり。
うまくいかない時は前提を疑う。
いつも自分が正しいわけではないのです。
修正・改善し、行動に移す。
俺はこれからもたくさんたくさん間違うのでしょうが、そんな時は『そもそもの前提』を疑い、次々に正していきたいと思います。